3月7日(日)に千葉市の武石城址周辺に行ってきました。
本来は江戸川河川敷まで足を伸ばしてみようと思っていたのですが、前日にスマホのホルダーが金属疲労で支柱が折れてしまったので断念。新しいホルダーが届くまでは近場で済ますことにしました。
海浜幕張駅から武石城址までのルートは、国際大通りを京葉道路の武石ICに向けてほぼ1本道です。千葉西税務署を越えてすぐの道を右折します。移動時間17分、走行距離3.4kmほどです。
ネットで調べると下記の記述が見つかりました。
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武石城は千葉常胤の三男、武石三郎胤盛の居城として知られています。武石氏は「第一次国府台合戦」において小弓公方に味方した武石胤親が討死して滅亡しました。現在城址は真蔵院となっており、墓地からのぼった先の平坦地が主郭部とされますが遺構はありません。また近くにある武石神社は胤親の居館跡、真蔵院は胤盛の曾孫にあたる4代・武石長胤の居館跡とされます。なお武石氏の一部が亘理郡に移り住んで亘理氏を名乗っています。この子孫が涌谷伊達氏で、「伊達騒動」で知られる涌谷藩当主・伊達宗重は武石氏の子孫でもあります。
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真蔵院につきました。向かって右手にある駐車場に駐輪します。
Google Mapでは真蔵院の裏手に城址がありそうです。
伽羅陀山真蔵院です。
立派な建物です。
左には祠があります。
その左には手水舎があります。
さらに左に進むと真蔵院波切不動尊が鎮座しています。
階段を登り、拝殿の右わきにさらに上に登る階段があります。
拝殿の裏側は崖になっています。
階段の上にはお墓がところ狭しと並んでいました。
その一番手前に羽衣神社の石碑があります。うっかりすると見過ごしてしまいそうです。
羽衣神社はこの碑だけのようです。
お墓を通り過ぎると開けた場所に出ました。なにもない平地でした。開けた土地からお墓の方をみるとこんな感じです。
周囲を見渡しても城址らしきものが見当たらないので、元来た道を引き返します。
拝殿脇から観た景色です。
拝殿の右側にもうひとつ手入れされた石段があります。
この一帯の樹木が千葉市の保存樹木に指定されています。
一通り観て回りましたが、ネットで書かれている通り特に城址らしきものを見つけることができませんでした。
武石IC周辺で昼食をとろうと「からやま」に寄ったので、食事後にもう少し付近を観て回ることにしました。
花見川サイクリングロードをランニングしていると対岸の高台に鳥居が見えるので、そこに行くことにしました。
恐らく諏訪神社だろうと思ったので向かいます。
道中に三峯神社があったので立ち寄りました。
賽銭箱が見当たらなかったので祈願だけしました。
三峯神社を後にして諏訪神社に向かいます。
ルート上近い西参道に着きました。
急こう配の坂があるので、マウンテンバイクを手押しで上りました。
坂を上りきると拝殿の脇に出ました。
拝殿は、嘉永年間(1848年~1853年)新造、1968年(昭和43年)改築。向拝の龍は彫物師・嶋村俊表の作。俊表は嶋村流江戸彫工の祖・嶋村俊元の8代で、氷川神社(川越市)の本殿、成田山新勝寺の釈迦堂または田無神社(西東京市)の本殿等も手掛けている人物です。
拝殿の裏側の本殿の写真です。
1836年(天保7年)再建。本殿胴回りの彫刻は江戸後期に活躍した竹田重三郎の作と推定され、向拝の龍の銘文によると島村田宮定直は本殿向拝部の修復に手掛けていたとのこと。
拝殿の前には手水鉢があります。
拝殿に向かって右側に神輿庫と祠が並んでいます。。
向かって左側には合祀した神社の碑が並んでいました。
正面の階段を上ると二の鳥居があります。
正面からだと階段なのでマウンテンバイクなどでは来られないのですが、西参道の坂道を来たのでここまで来ることができました。
二の鳥居から拝殿に向かって歩き、木々の多い茂る場所に入ると、右手に日露戦争凱旋記念碑があります。ここからだと長作町と花見川の全体が見渡せます。
花見川サイクリングロードから見える鳥居はやはりこの二の鳥居でした。
高台から階段を下ると一の鳥居があります。
一通り観終わったのですが、体が冷えてきたので戻ることにしました。
移動距離は8.32km、休憩を除く移動時間は44分9秒、平均スピード11.3km/h、獲得高度は35mでした。
スマホのホルダーが届いたら、また長距離を乗ってみようと思い